ディレクターズ・ノート
ブレス・イン・ザ・ダーク/暗闇で呼吸する
相馬千秋
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「大地が震えている。地球のエネルギーによって。あるいは投下された爆弾の破壊エネルギーによって。今この瞬間も、震える大地で、誰かが震えている。寒さに震え、飢えに震えている。怒りに震え、悲しみに震えている。言葉にできないすべての感情に震えている。命が震えている。(…)世界は今、あちこちで裂け、炎症し、激烈な痛みに震えている。」
1年前に書いた文章から、世界は何か変わっただろうか。何も変わっていないどころか、むしろ構造的暴力はますます拡大し、停戦はおろか、殺戮や人道危機は極限まで達している*。また天変地異や気候変動がもたらす明らかな異常事態も、そういうものだと慣れてしまった感がある。明らかにおかしい、と頭では理解していても、それが異常な現実を何も書き換えていかない無力感にも慣らされてしまっている。アートの世界でも、問題の本質と正面から向き合うことを避ける傾向が空気のように漂ってはいないだろうか。コロナ禍でのトラウマを忘却した先に、世界中で起き続けている炎症に見て見ぬふりをしながら、私たちはどこに向かおうとしているのか。
眩暈しか感じられないこうした状況に対して、私はすでに1年前こう書いている。「芸術に何ができるかという自己証明の問いはほとんど意味をなさない。だが、現実的には何もなす術がない状況を受け入れながら、これらの現実を想像し続ける扉を開き続けるために、演劇・劇場の知(コモンズ)を使い続けることはできるはずだ。」今回のシアターコモンズは、この言葉に対する応答として、一年分の葛藤と試行錯誤の結果を恐る恐る共有するタイミングだと言える。
「ブレス・イン・ザ・ダーク ―平和のための呼吸―」今回のシアターコモンズの参加作家であるキュンチョメが提案する作品タイトルは、この混迷の時代に私たちが実践できる、もっと倫理的かつポジティブな態度を詩的に言い表しているように思われる。呼吸、すなわち息を吸って吐く一連の反応は、人間に限らず、あらゆる動物の営みであり、さらには植物を含むあらゆる生命にも共通する空気の交換システムだ。「息」は「生き」であり、生まれてから死ぬまで、「息」は私たちの「生き」に寄り添い続けている。だが、巨大な都市開発が進む都市空間で、あるいはAIのテクノロジーが管理社会を隙なく強化・制御する社会で、その「息/生き」自体が構造的に脅かされている。その息苦しさは私たちの声を窒息させ、目を開けば、凄惨な戦下の映像とAIで加工されたフェイクなイメージが、無差別かつフラットに網膜に映り込んでくる……。こうした過剰な視覚刺激が「息/生き」を退化させる時代に、あえて暗闇に身を置いて深い呼吸をすることで、地球と自己、自然と身体、世界と此処の関係を新たに構築することができないだろうか。それは私たちに、文字どおり安息や休息だけでなく、「息/生き」の復活をももたらすはずだ。今回、キュンチョメの提案する作品のコンセプトを全体テーマにも使わせていただくことで、「暗闇で呼吸する」という身振りをシアターコモンズ全体にも敷衍してみたい。
物理的に息の根を止められる脅威にさらされ続けている地域では今、その過酷すぎる現実を記録し伝える以外に、どんな表現があり得るのだろうか。レバノン出身の映画監督・アーティストのジョアナ・ハジトゥーマ&カリル・ジョレイジュは、2007年にパレスチナ難民キャンプの下から出土した、伝説の古代ローマ都市オルトシアのめくるめく物語を舞台に上げる。1,500年前の津波によって消失した古代都市の地層の上に、1948年のナクバによって生じたパレスチナ難民キャンプが覆い被さり、そこが戦闘によって破壊されることで皮肉にも古代と現代がつながる。このように矛盾と眩暈に満ちた現代の中東の裂け目から、私たちはどんな未来への切実な願いを汲み上げることができるのだろうか。
ともに呼吸すること自体が禁じられたコロナ禍の辛い記憶は、忘却と消去の対象でしかない。だが中国出身のアーティスト、メイ・リウは中国全土での強制ロックダウンでのトラウマや悲劇を、自らのレクチャーパフォーマンスによって未来投機的なフィクションへと昇華させる。コロナ禍で多くの人類が経験した「待機の時間」は、未来においてあり得るかもしれない「もう一つの世界」へとつながっている。現実とフィクションのあわいから立ち現れるパフォーマンスは、経験を克服し未来への希望へとつなぐ、アジアの新世代のナラティブを感じさせるものになるはずだ。
これまで3年にわたり港区エリアでのリサーチを通じて「オバケ東京のインデックス」を積み重ねてきた佐藤朋子は、今回いよいよ、東アジア史の痕跡から東京を捉え直すパフォーマンスとウォークを提案する。日本自体がアジアを襲う「オバケ」であった植民地支配の痕跡は、その被害者ないし加害者の手によってどのように残され、消され、東京という都市空間を書き換えてきたのか。これからアジアのゲートウェイとしてさらなるホスピタリティを発揮する港エリアで、複数の視点で東アジアのナラティブを再構築し、蓄積していく新たな挑戦が始まる。
市原佐都子も今回、東アジア、具体的には日本、韓国、香港の俳優とのコラボレーションによって、アジアの同時代が抱えるグローバルな問題や不条理に取り組む。家父長制や資本主義、大量生産・消費システムのひずみから生じる不条理や滑稽さ、そして欲望のグローバルな均一化。人間が作ったシステムの中で失われる人間の動物性やその矛盾を、猫のキャラクター、キティ一家の不条理劇はどのように抉り出すだろうか。
演劇と社会の関係をラディカルに問い続けたドイツの演出家・劇作家ルネ・ポレシュ。ちょうど1年前に急逝した彼の演劇論が凝縮された戯曲に、スペースノットブランクの演出家、小野彩加と中澤陽が挑む。2000年代以降、ポストドラマ演劇を牽引し、演劇界に革新をもたらしたポレシュの予言的な言葉は、混迷の世界に放り出された2025年の私たちに、どう突き刺さるのだろうか。ぜひその言葉を一緒に声に出して読むことで体感していただきたい。
また今回も3つのフォーラムの開催を通じて、複数の参加作品やアーティストに通底する問題意識や社会課題について、横断的な議論を開く。フォーラム1では、「演劇とケア」をテーマに、演劇という経験が、個の心身のケアや居場所とどのような関係にあるのか、セラピーや宗教にも隣接する領域をも開拓する芸術実践例を交えて考察する。来たるべき劇場は、現代社会にいかに相互ケアの実践場や居場所として機能しうるのか、未来のヴィジョンをともに紡ぎたい。フォーラム2では「演劇と社会」と題し、演劇というメディアと社会変革の可能性について、この問いに真摯に向き合い続けたルネ・ポレシュの演劇理論を振り返りながら討議する。フォーラム3では、「演劇と東アジア」というテーマのもと、同時代の演劇の作り手たちが、東アジアにおけるリアリティや歴史とどのように向き合いながら演劇を制作しているのか、その現在地を確認する議論を行いたい。
また、集団でシアターコモンズを体験する企画として前回大好評だった「コモンズ・ツアー」を、今回も2週末にわたり実施する。シアターコモンズの演目やアーティストのトークを集団で鑑賞するのみならず、その前後の移動やナビゲーターや参加者同士のおしゃべり、記念撮影など、シアターコモンズを能動的かつ横断的に楽しむツアーとなる予定だ。ぜひご参加いただきたい。
2017年から毎年開催されてきたシアターコモンズは、今回で9回目となる。インディペンデント・ランのプロジェクトとして、公共、民間、諸外国文化機関から複合的にファンドレイズをし、そこにチケット収入を加えた総予算で運営してきた。今回、これまで支援を受けてきた助成金の一つが不採択となり、予定していたプログラムを大幅に縮小・変更、さらにチケット料金も通常より高めに設定せざるを得ない状況となった。それでも赤字を負いながら実施するインディペンデント・ランの意思と責任を再確認するとともに、次なる10年に向けて、新たなヴィジョンと戦略を考えるタイミングと捉えている。2017–2019年の創設期、2020–2023年のコロナ期を経て、これまで蓄積されてきた「演劇のコモンズ」をより社会の中で実装する次のフェーズが始まっている。それがこの先具体的にどのような形をとるかについて、次回10周年で明らかにできるよう、準備を進めていきたい。今回のシアターコモンズは次なる10年に向けて、過渡期の暗闇の中で、深い呼吸とともに、幕を開ける。
*この文章は2025年1月上旬に執筆されたものです。
相馬千秋(そうま・ちあき)
NPO法人芸術公社代表理事・アートプロデューサー。東京藝術大学大学院美術研究科准教授。領域横断的な同時代芸術のキュレーション、プロデュースを専門としている。プログラム・ディレクター、キュレーター等を務めた芸術祭として、フェスティバル/トーキョー(2009–2013)、あいちトリエンナーレ2019、国際芸術祭あいち2022、シアターコモンズ(実行委員長兼任、2017–現在)、世界演劇祭テアター・デア・ヴェルト2023等がある。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受章、2021年文化庁芸術選奨・文部科学大臣賞新人賞(芸術振興部門)受賞。
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