キュレーション・コンセプト

Bodies in Incubation 孵化/潜伏するからだ

相馬千秋

‘Suspended’ by Yuko Nakamura

いま、世界中の「からだ」が、孵化/潜伏の時間を過ごしている。

2020年から2021年にかけて、私たちは移動と接触と集会を制限された、特異な時間を生きている。移動すること、他者と触れあうこと、集まること。人間という生物にとって必要不可欠な営みが、厳しい制限・管理下に置かれて既に1年が経過する中、個々人の心身や感覚にもさまざまな変調が生じているはずだ。

もちろん私もその一人だ。テレワークが常態化した非常事態宣言下、デジタル・デバイスの画面が「いま・ここ」の主戦場になった時、私は自分の遠近感や時間感覚が著しく失調するのを感じた。時間が前に進んでいる感覚が失われ、自分の「からだ」がそこに存在するという現実感が希薄になっていく。パソコンを起動すれば、二次元的に現れる他者と正面から対面するのに、目を合わせることはできない。手を伸ばしても触れることはない。ともに呼吸をすることもない。情報交換はできても、情動の交換はできない。近くのものが遠くに、遠くのものが近くになって、遠近感が混乱してしまう。

Teleという接頭辞は「遠隔」を意味するが、これまで人類はテレスコープ(望遠鏡)、テレフォン、テレビジョンなど「テレ」の技術を発明することで、「ここ」と「よそ」、「わたし」と「あなた」の距離を縮めてきたと言える。だがコロナ禍では、あらゆる営みの「テレ化」が急激に加速した結果、現実を構成する距離感や時間感覚が乱調してしまったのだ。「テレ」の技術をもってしても会いたい人に会えない、行きたい場所に行けない隔離の中で、私はいつの間にか、いまこそ必要なのはテレポーテーション(瞬間移動)とテレパシーではないか、という妄想に取り憑かれた。

そんな隔離生活を経て私の中に着床したのが、Incubationという言葉だ。インキュベーションというと日本ではビジネス用語のニュアンスが強いが、原義では「孵化」と「潜伏」を同時に意味している。卵が孵化する状態とウイルスが増殖する状態が一つの言葉に併存しているとはなんとも示唆的ではないか。確かに私たちはいま、卵とウイルスを同時に抱えたまま、「待機の時間」を生きている。生命の誕生とその危機は一つの身体にパラレルに存在し、それゆえ、私たちの存在を揺さぶる。その両義的な生命のありようは、まさに芸術のそれとも重なる。創造と破壊、進化と淘汰といった相反するものの境界性がゆらぎ、組み換わり、同時に存在するリミナルな時間を私たちは生きているのだ。

この「待機の時間」の裂け目から、今回のシアターコモンズのキュレーション・コンセプトは練られている。

病の時代、治癒と再生

誰しも心身の不和や失調を抱えながら歩まざるを得ないコロナ時代。誰もが無自覚のまま感染当事者になり得る事態は、「健康であることが善」という近代的価値観にも強い揺さぶりをかけている。私たちは知らず知らずのうちに他者を感染させる加害者にもなり得るし、その逆もあり得る。こうした恐怖は人々を過度な管理や差別へと駆り立てる一方、体温や体調など個人の身体にまつわる情報がいとも無批判に権力の管理下に置かれていく。そもそも病や生死は生物の存在にとって根源的なもののはずだが、いま、全世界を覆う恐怖は、逆説的に病や死を私たちから遠ざけ、接触できないガラスの向こうに追いやっている。

このように疫病蔓延が人間の身体にまつわる普遍的な問題を再び顕在化させる時、芸術はどのような応答が可能なのか。芸術には、医療とは異なる方法でトラウマや痛みを語り直すことで治癒する力があるとしたら、それはいま、どのような形で実装され得るのだろうか。

ツァイ・ミンリャンのVR映画では、主人公の男性は謎の病に冒されて養生にいそしんでいる。どんな治療も効果があがらない中で、森の中の廃墟に住みつく他の生命との触れあいが彼を治癒へと導いていく。中村佑子のAR体験型映画『サスペンデッド』は、病の親をもつ子供の視点から捉えた世界を体現する試みだ。中村自身が当事者として経験したという「生」の宙吊りの感覚を追体験することで、私たちは言葉にできない痛みや感覚をいかに癒やし合うことができるだろうか。百瀬文は今回初めて、治療とアート体験が一体化したセラピーパフォーマンスという新領域を切り拓く。観客は実際に鍼治療を受けながら、百瀬の手掛ける声の介入によって、自らの身体の中に起こる劇的変容と治癒を同時に体験することになる。接触することが忌避される時代に、敢えて触覚的なアプローチをとるこれらの作品を通じて、芸術と治癒、再生をめぐる思考を開いていきたい。

‘Suspended’ by Yuko Nakamura

集まれない時代の集まり方:アート・テレポーテーション

コロナは「集まり」を禁じる。シアター(劇場/演劇)やコモンズ(共有地)はいまや、感染リスクの高い場として世界中で厳しい制限下に置かれている。であれば、この制限の中でも可能な新たな「集まり」の形を発明し、再設定することが急務であろう。そもそも演劇は、仮想と現実を重ね合わせることで成立する芸術であり、舞台は、常にどこか「よそ」を仮想的に出現させる装置でもある。テレポーテーションして会いに行きたい。テレパシーで情動を交換したい。もう会うことができない人、遠くの人、「いま・ここ」を共有できない人やものとの遭遇や対話を、演劇的な想像力は可能としてきたはずだ。

こうした考えのもと今回シアターコモンズでは、現実空間だけでなく仮想空間の中でも対話と集会が可能な方法の開拓を目指し、3つの新作を製作し世界に先駆けて発表する。ポストヒューマン演劇の先駆的存在である演出家スザンネ・ケネディは、観客一人ひとりが仮想空間の中で体験する対話型VR作品を創作する。観客が仮想空間で出会うのは、人工知能AI だろうか、それとも自分自身(I AM)か。小泉明郎は前作『縛られたプロメテウス』に続いて、VR技術を活用したパフォーマンス『解放されたプロメテウス』を新たに制作する。観客が仮想空間で体験するのは、誰か他者の見た夢の風景だ。その夢が現実と重なり合った時、私たちはどんな解放と戦慄を体験することになるだろうか。前述した中村佑子の新作映像では、AR(拡張現実)技術を映画鑑賞の形態に応用することで、観客はその物語が起こったであろう現実の空間で二重化された世界を体験する。またツァイ・ミンリャンのVR映画では、観客が完全に映画の空間の中に没入し、自らもその世界に浮遊する存在となる。

今回のシアターコモンズでは、これらVR/AR技術を応用した4作品を「アートテレポーテーション・プラットフォーム事業」として特集することで、仮想空間と現実空間の両方で展開される表現の可能性を探求する。仮想と現実の結託と拮抗から生まれるこれらの作品を通じて、これまで身体的、経済的、政治的などさまざまな理由で公共空間に集まることができなかった人たち、ものたちにも開かれた、新たな「集まり」の形を模索したい。

二つの災厄の「あいだ」で耳を澄ます

震災から10年、パンデミックから1年。いま、私たちは二つの災厄の「あいだ」の時間を同時に生きている。1000年に一度の天変地異、100年に一度の疫病流行と言われる、動物的に把握できない長さの時間。非常事態を日常として生きる有事の時間。10年間緊急事態宣言下にある被曝地域で止まったままの時間。オリンピックに向けた時計に強制同期させられた時間。隔離生活の中で単調に繰り返される個の時間。私たちは、勝手に暴走する複数の時間に混乱し、疲労し、失調している。今回のシアターコモンズは、この失調した時間や狂った遠近法をもう一度調整し、現在進行形の災厄の「あいだ」で揺れる自他の声に耳を澄ます場としても構想されている。

今回、高山明は9年前に上演したツアーパフォーマンス『光のない。エピローグ?』を大胆にリクリエーションして再演する。舞台は、東京電力本社をはじめ日本の高度経済成長とともに発展してきたビジネス街・新橋一帯だ。10年前に福島の女子高校生たちによって読み上げられたイェリネクの言葉たちは、コロナ禍で宙吊りの東京に、どのように響くのだろうか。バディ・ダルルは自らのルーツである中東・シリアを覆い続ける不条理な災厄に対し、架空国家を作るという遊戯的手つきによって揺さぶりをかけるワークショップを開催する。佐藤朋子は、オリンピックに向けた再開発で風景が激変する都心・港区エリアに対峙し、過剰なまでに上書きされ、消去される都市の記憶の襞に触れていく。1957年に岡本太郎が書いた都市論「オバケ東京」を起点に今後数年間かけて続けられるリサーチの成果は、レクチャーパフォーマンスという形で出力され、移ろいゆく都市の諸層を掬い上げていくことになるだろう。これらの作品を通じて、共同体が共有する大きな災厄や出来事のあいだに流れる複数の時間を行き来し、そこでかき消された声や記憶を再編成することで、狂った時間と距離感をチューニングできるのではないだろうか。

これら3つのキュレーションの核は、相互に干渉し合い、作品と観客、仮想と現実、歴史と未来、言葉と実践の「あいだ」を行き来しながら交わり、深められていくことになるだろう。これらは、先の見えない不安定な時代を生きる私たちの生存を賭けた問いでもある。確かにウイルスも放射能も不可視で制御不能な驚異だが、そもそもそうした制御不能なものの存在を人間中心主義と技術信仰によって見えなくしていたのは人間の奢りでもある。歴史を振り返れば、人類はどれだけの天変地異や疫病流行を経験してきたことだろう。自然の制御不能な力に触れ、それを畏怖してきたことだろう。そしてその度に、芸術や宗教は、個や共同体のトラウマを語り直すことで治癒し、日常と秩序を回復してきたはずだ。

いま、「待機の時間」の中で宙吊りにされた私たちの生と「からだ」をもって、コロナ後の世界を知覚していくこと。そこには、人間以外のもの、他の生命や存在、ウイルスさえも含んだ調和があるはずだ。そのための新たな環境とエコロジーを作り出すのが、これからのシアター(演劇/劇場)とそのコモンズ(共有地)の新たな役割ともなるだろう。その進化形を産み出すために、私たちはいま、潜伏し、孵化を待つ。

今回のシアターコモンズは、その「待機の時間」を生きる私たちが、それぞれ可能な形態で集まり、思考と情動を共有・交換し、癒やし合うための、しなやかな「触れあい」の場となることを期待している。ぜひそれぞれの身体を伴って、あるいは遠隔で、あらゆる場所からご参加いただけたら幸いである。

相馬千秋(そうま・ちあき)

NPO法人芸術公社 代表理事/アートプロデューサー。「フェスティバル/トーキョー」初代プログラム・ディレクター (F/T09春〜F/T13)、文化庁文化審議会文化政策部会委員(2012-15)等。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受章。2016年より立教大学現代心理学部映像身体学科特任准教授。2017年より「シアターコモンズ」実行委員長兼ディレクター。「あいちトリエンナーレ2019」のキュレーター(舞台芸術)も務めた。

Photo: Yurika Kawano